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「回想:日本ローダンファンダム20年史」

 1992年日本SF大会の企画パンフレット用に書いた記事を1995年に転載/加筆したものです。
 随分と古いものですが、そのまま掲載します。  回想の基点が1992年夏であることに留意してお読みいただければ、と思います。


 当時を知らないわたしがまとめるような記事ではないのかもしれない。だが、考えれば、わたしもかれこれ14、5年こんなところにいる。それに、20年前のことを鮮明に覚えている人もいないだろう、ということで、こんな形でまとめてみた。
 なにぶんにも昔のことでもあるし、参照した資料もふくめて、かならずしも正確でない記述もあると思う。関係者の方々、勝手ながらご了承いただきたい。


1.みんなのはじまり

 ファンはファンする対象が存在してはじめてファンである。そして、シリーズがあるところ、ファンはたいていどこかしらに存在する。
 その意味で、日本ローダン・ファンの起源は、1971年、早川文庫SF32『大宇宙を継ぐ者』の発行にまでさかのぼってよい。(まあ、異論はあるだろうけれど)
 当時、SFファンなら、たいていこの本を手にとったはず。読んでいない方がおかしい作品だったと思う。現に、当時バリバリのSFファンだった父親がこの本を大事にとっておいたために、ローダン・ファンになった(不幸な)子供をわたしは何人も知っている。それに、考えてみるに、この本、やっぱりおもしろいのだ。
 やがて、ローダンのファングループをやろうという奇特な人々が、そうしたSFファンのあいだからあらわれた。それが1974年のことである。


2.わたしのはじまり

 わたしは、ただの本好き、とりあえず、SFファンだった。
 SF文庫だから読んだというわけ。
 最初に手にとったローダンはもちろん日本語に翻訳されたもの。早川版20巻『精神寄生人の陰謀』だった。くわしい時期は調べてみればわかるのだろうけれど、たしか中学生のころ。
 15、6年前。この時期、小遣いの何千円だか、とにかく1月つかわないで、月末にSFやミステリの文庫をどかっと買うのが楽しかったような気がする。だから、もっぱら、薄い本(へんなものが多い)ばかり選んで冊数をこなそうとしていた。当然、シリーズは恐いということもよくわかっていたので、ためらいはしたものの、そのとき手持ちの残高で買える本がそれしかなかったわけで、まあ、しかたない。
 この早川文庫ローダン・シリーズ、当時で実に何十冊。本当にカスだったら、この時期何十冊も続いて出ているはずがない。現に、手にとったわたしも思った。
 おもしろいや。
 これが250冊(500話……当時の数字)もあるのか!
 やっぱりこのころ買いはじめた「SFマガジン」の1977年7月号でペリー・ローダン・ファンクラブ(PRFC)の広告をみて、はじめて知らない人に手紙を書いた。返事はそっけないコピー1枚で、半年分1000円送れと書いてある。当時のわたしにとっては大金だったけれど、とりあえず送る。
 べつにすごい立派なものを予想していたわけではないけれど、2カ月待たせて届いたのがペラペラの手書きオフセット8ページという正会誌「グッキーの牙23号」。これを見てどう思ったかは、もうよく覚えていない。
 内容は埼玉のK.I氏のローダン99話「人類の友」の紹介など。基本的には手紙欄だけで、そういう意味では、たいしたことなかった。でも、こんだけ細かい字をびっしり書いて、月に1度発送して、別に1000円とっても、ほとんど赤字だろうし、世の中にはどうやら本当にへんな人たちがいるんだな、ということがわかりかけてきた。
 当時の本部は大阪。かなり個性あふれるメンバーで運営されていた。
 1回手紙を出して「グッキーの牙」に載った。けれども、1978年春になって、ぱったりこなくなった。次回会費の催促の手紙もなし。半年という話だったはずだが、会誌は5冊しか来ていない。まあ、いいか。
 金がないこともあって、そのままになってしまった。
 どうやらそのころ、ペリー・ローダン・コンタクト・サーヴィス(PRKS)という会が、やはり大阪で活動していたのである。実はこちらの会誌「Raumschiff」(体裁は似たようなもの)のほうが最新情報等満載で読むぶんにはおもしろかったのだが、一地方会員にすぎないわたしが知るわけもない。
 実はこのころすでにPRFC自体は大きくなりすぎて、次第にパワーを失っていたらしい。全国組織といった形が重荷になっていたのだと思う。あちらこちらの支部や個人の活動のほうがおもしろくて、それが次の世代のローダン・ファングループへとつながっていく、といった時代だったのだ。


3.ペリー・ローダン・ファンクラブ(PRFC)

 このPRFCのはじまりについて、後継ファングループ(PRCJO)の会誌からすこし引用してみよう。

『とにかく、ことのおこりは1974年5月号SFマガジンのテレポート欄にのったF.Tの投書から。この結果20人ほどで「第三勢力」という会ができました。これが一応ペリー・ローダン・クラブ第1号。準備誌「スターダスト」を2回、自己紹介の「グッドホープ」を1回出し、正会誌「スターダスト」を出すということで、当時では大金の600円を集めたが……。(中略:けっきょく「第三勢力」は空中分解)
 それで1975年1月号にT.M君の広告が出た。すぐ41名集まり、出たファンジンが今や伝説となった「ゴビタイムズ」。ここにはじめてPRFCの基礎ができたわけで、今も会員の人は、T.S、J.S、T.Iなど。
 そうこうするうちに、この年の3月30日、第1回の会合を開きPRFC大阪が誕生しました。ペリー・ローダン・クラブ・ヤーパン・オオサカ(PRCJO)の創立はこの日であるといっても差しつかえありません。(中略)恐怖の「おたまじゃくしノート」というのがあって、わけのわからへんことを書きあっていまして、これは今も大切に保存されています。
 この年、神戸でSF大会があり、T.M君の正体がばれ、今日のSF大会でローダン・ファンがコケにされる伝統ができました。シンコンの頃はファンジンがよく売れ、「グッキーの牙」Nr.4はすぐ品切れになりました。
 1976年の9月から本部が東京に移りました。会長が豊田有恒とつきあいのあったT.Hで、名誉顧問に豊田有恒がなり、日本で一番最初にローダンを紹介したのはオレだ、
と言っておりましたが、なんのことはなくて、友人がドイツで買ってきただけで、空港で本でも買うとローダンの1冊くらいあっても全然不思議ではないのです。
 そして、いつの間にか、支部もたくさんできていました。高知、大阪、中国、京都、関東、わりと勝手に行動しているところで東海、新潟。T.Hは1年半の間に「テラナー」を4回出しただけで、あまりにひどいということで、本部を京都、大阪に移すことにした。支部誌「グッキーの牙」を本部誌にしただけでしたが、一時180名ほどになりました。これが1977年の4月頃です。
 このころPRKSができ、「Raumschiff」を2年出しました。』

(PRCJO「DYNASTIE ZOLTRAL」「ペリー・ローダン・クラブの歴史」より抜粋)


4.PRFC関東例会

 さて、なんとなくPRFCを退会してしまったわたしだが、縁はなかなか切れないもので、1978年の7月、埼玉のK.N氏から「関東例会」参加のさそいが来て、のこのこと渋谷まで出かけた。
 埼玉のK.I氏が中心となっていつの間にか埼玉例会が都心に引っ越してきたといういきさつらしい。以前の東京本部の流れではないということ。
 「天城」というトースト食い放題の喫茶店で、話についていけなかったけれど、へんな話がおもしろかった。埼玉支部誌「INTERSOLAR」と完成したばかりの「OUTERSOLAR」(関東のメンバーを登場させたローダンパロディ小説)を売りつけられ、大阪から遊びにきていたPRKSのT.I氏より、ローダンの原書をもらう。実はそのあと半年間、あまりのみすぼらしさに、それが原書だとは知らずにいたのだけれど。
 ファングループの例会というのはけっこうやみつきになる。
 それから「へんなはなし」をきくためだけに、月一回の例会に顔をだすようになってしまった。
 相変わらず金はないし、月一度の渋谷行きの交通費その他もあって、なおさらPRFCへの再参加はできなくなる。でも、どうやらそのころ、本部である大阪の会誌発行ペースは本当に遅れており、だんだんとPRKSの「Raumschiff」が大阪の顔になりつつあった。
 1979年3月、いきなり「グッキーの牙」最終号が届き、PRFC解散という話を知った。
 大阪の活動はそのまま、T.I氏らを中心とするペリー・ローダン・クラブ・ヤーパン・オオサカ(PRCJO)へと引き継がれた。正会誌は「DYNASTIE ZOLTRAL」。内容的にはI.T氏の「Raumschiff」を継承するかたちになる。もちろん、関東でももうPRFCの名前は使えない。
 ということで、K.I氏が中心となって「関東ローダンサークル ペリーワールド」が誕生し、「INTERSOLAR」が正会誌になる。関東例会でごろごろしていたわたしは、気がついたらその会員になっていた。


5.ペリー・ワールド

 ペリー・ワールド創設者K.I氏の創設の辞を引用する。

『私がこのPRFCなる団体に参加したのは1975年、ストレートで大学に入れた数カ月後であった。当時本部は富山、SFマガジンの広告で入会。関東例会が東京であるというので、8月新宿西口へ。これが関東の第2回例会であった。
 当時の主要メンバーは、今はなきT.H……(中略)各氏、それにいまだ抜け出せずにいるT.Sだった。この8月、SF大会にていつのまにか本部が東京に移ってしまった。このへんの事情は、入会したてのためよく知らなかったが、あとできいたところでは、黒幕が動いていたとか。
 このころの会誌はタイプ印刷の「テラナー」、ガリ版印刷の”かすみの”「グッドホープ」。その以前から続いていた「ゴビ・タイムズ」(T.S編集)。そして関東誌「ブリーの……」「NWNAT・FONS」これまたガリ版、T.S編集。主要メンバーは高校生か大学1年ながら、よくこれだけ出せたものである。
 例会は渋谷の「アベニュー」の半分を占領し、店の人が親切なのをいいことに毎回大騒ぎをしていた。(ただし、このころは半客会とかトリトンなどと合同で、このほうが騒がしかったのではあるが……)
 私の活動は高校のときからためこんでいたACE版のあらすじ紹介。T.Sの発行が遅く、日本版の出る直前にそのあらすじが載ることが多かった。この年、埼玉にレキシコンを訳して送ってくる高校生がいることを知り、年末か、次の年の初めあたりに例会に引っ張りこむことに成功。これがまだ当時純真であったK.Nである。このタイプは一度例会に出ることは出るが、次からはパッとこなくなるはずが、そうならずに今日まで続いたのはやはりまともではなかったのだろう。
 1976年、これで埼玉も三人、では支部でも作ろうかという所で以前からいたひとりが北海道へ。この年、TOKONではPRFCの各地のメンバーが集まり、大阪のT.Iなどと会う。(どうも昔のことなので、細かいところはどうだか……たしか大阪人らしく会誌を売るのにいそがしかったようだった)
 1977年4月、T.H氏が他の活動で忙しくなり、本部が大阪に移り「グッキーの牙」本部誌に昇格、そして、「Raumschiff」(T.I氏)の発行。そしてK.N氏一浪のすえ、青学に合格。それ以後、関東としての活動は例会のみとなり、低成長時代にふさわしい安定期に入る。この年はHINCON。申し込みにあぶれた人が集まりT.S宅でRHOCONが開かれる。ふしぎなことに、このRHOCONのために大阪からわざわざ来た人がいた。なお、その前夜祭(?)としての大例会も20人集まった。そして、このRHOCONがあの「大貧民」発祥の地となった時であった。
 そして、1978年、この年は関東が再び活動を活発化させた年となった。(中略)
 さて、4月、ついに念願の埼玉支部誌「INTERSOLAR」の発行!(前年から埼玉例会は行われています)
 この年はいろいろと変わったメンバーが増えだした。例会も毎回10人をこすようになる。
 SF大会ASHINOCONでは「ペリー・ローダンの部屋」が「大貧民の部屋」となり、以後ファングループに大貧民が流行しはじめ、「ぺ」なる差別用語まで登場するようになった。ASHINOCONの翌日は宇宙博見学。
 ”冗談が本当になった”「OUTERSOLAR」が発行され、長編パロディは続かないという定説をくつがえす。このころから例会はまともな話が少なくなってくる。いっこうに出ない「グッキーの牙」を横目でみながら「INTERSOLAR」は着実に発行されつづけた。
 1979年、新年号付録「ローダンすごろく」そして「OUTERSOLAR2」発行。一方、数々のウワサを放ちながら本部滅亡。4月よりPRCJO発足(大阪)。そして関東では私が就職し神奈川へ移ることになり、埼玉支部消滅! 「INTERSOLAR」を関東誌に昇格決定。
今後は会誌発行を一応K.N君が担当し、大阪と平行して活動を続けるということになっています。
 そして、来年5月31日、6月1日に開かれるRHOCONに向けてPRFC関東は活動していく予定です。なお、名称は「関東ローダンサークル ペリーワールド」と変更になります。』

(ペリー・ワールド「INTERSOLAR10」「PRFC関東の歴史および今後について」K.Iより)

 思えばこのころ、SFというものがメジャーになって、だんだんと、それ以前のとは変わりはじめていた。(本屋で「SFマガジン」が明るいところで平積みになりはじめたのはいつのことだったろうか?)おそらく、SFもSFファンも変わりはじめていたのだと思う。増えすぎて、だんだんとひとつのいれものに納まらなくなってきたのだ。
 そうして、やがて「まるぺ」という言葉が誕生する。


6.「まるぺ」の起源

 起源は正直いってよくわからない。
 もちろん、わたしが最初に「まるにぺ」のTシャツを見たのが1979年8月のSFショーだったとか、そういった話はできる。ではその前のいつの時点で「まるぺ」という言葉が登場したのか、語ることはどうもわたしには難しい。
 ともあれ、「あんなもんをいまだに読んでるモノ好き」という視点から、ローダン・ファンをからかうという風習はずいぶんと前からあった。そこのあたりは、上に引用した資料からもうかがうことができる。迫害されるとか、追放される、といったテーマに日頃親しんでいるSFファンが、差別する者とされる者とにわかれて遊んでいた、というのも、わかる話である。
 差別される対象をタブー視し、名を呼ぶことさえためらって「ぺ」と称する、というあたりも、なかなからしくていい。しかも、「ぺ」なんて可愛いでないの。
 実際、そうした状況を当初一番おもしろがっていたのはローダン・ファンであり、かえって自分からそういう話を広めてさえいたころがあったのも事実である。
 現に「まるにぺ」のTシャツを最初につくり、今でも毎年つくって喜んでいるのも、両手で胸の前に「ぺ」の字をつくる「まるぺサイン」を考えたのも、大阪の古株のファンなのだし。
 困ったのは、1980年代に入って、本当にローダンしか読まないローダン・ファンがあらわれはじめてしまったこと。そして、同じころ、ファンタジーしか読まない「SFファン」とか、アニメしか見ない「SFファン」なんかが、登場しはじめた。SFファンがSFファンという言葉だけではとらえられなくなってしまった、そんなところから、いい意味でも悪い意味でも「まるぺ」という言葉は生まれてきたのだ。
 具体的な話は、今度また機会をつくって聞いてまわるとしよう。


7.その後

 大阪と関東のローダン・ファングループは、名称や主催者をかえながら、それでも会員や伝統をそれぞれ継承しながら今にいたっている。大阪はやがて、少人数制の例会中心の集まりになり、関東は全国組織の活動を続けている。
 大阪のPRCJOは、1982年にペリー・ローダン・クラブ・オーサカ(PRCO)、さらに1984年にSOLAR FLEETと改名して、現在にいたる。関東のペリー・ワールドは1984年にミレニアム・ソルとして再結成された。ともにPRFCの流れを継いでいるわけで、ここまで続いているというのも、すごいものだ。
 1980年代前半には他に、PRFCとは関わりなく誕生した太陽系帝国、ブラウ・システムといったファングループがあったが、いつの間にか姿をみせなくなった。

 もっとも、どこの古株ファングループも同じことだと思うけれど、主催者にさしたる異動もなく長年つづけていれば、活動は落ちついてくる。
 そういう意味では、1980年代のはじめが一番活気があった。
 1980年、1982年と、2回のローダン大会「RHOCON」が開催され、その他、数回の小ローダン大会(kleine Rhocon)があった。やがて会誌も厚くなり、平とじ数十ページのものがあたりまえになる。比較的コンスタントに翻訳が発表されるようになったころでもある。
 そして、そのころのおもしろい話は、当時いたわたしや、そこいらへんのローダン・ファンをつかまえれば、そこそこ聞くことができるはずだ。

 さて、わたしはといえば、1982年からは、rlmdi - ローダン研究会mdiという名前でローダン・シリーズの最新ストーリー紹介をなどをしてきた。
 今年(執筆当時:1992年)は日本ローダン・ファンの発祥から20年、わたしのrlmdiの創設10周年でもある。


1992/1995 y.w
2014 Rhodan.jp 廃止に伴いrlmdi.のコンテンツとして再録。

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