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| ペリー・ローダン |

月の雫

Heldeins Jungwald Tränen des Mondes / y.wakabayashi 訳

解説

 ファンのオリジナル・ストーリー。
 ローダン・シリーズ1400話あたりの設定をそれなりに料理した小品。現在の日本の読者にはわからない点ばかりだろうが、「最新ストーリー」の話題として不可欠な「プシオン」をまとめて解説しようとしているあたり、まあテキストとして読む価値はあるんだろうな、というところである。
 作者は十数年来のローダン・ファンで、どうやらコンピュータ関係の仕事をしているらしい。SF作家志望とかいう話だが、この手のひとりよがりな作品ばかり書いているようなので、見こみは薄そうである。ドクター・ブルーバキJrがらみの続編もまだいくつかあるとのこと――ちなみにブルーバキというのは実在(うーん?)の数学者である。
 参考までにいくつか解説しておこう。
 アンティテンポラル干満フィールド=ATGフィールドを装備した《津波》は、奇数・偶数番号でペアを組んで作戦する特殊艦。GAVO"K - 〈銀河種族尊厳連合〉の軍縮条約のなかで生まれた、防御兵器強化艦のひとつの頂点といえる。
 バルディオクの《パン・タウ・ラ》をはじめとする超巨大〈胞子船〉も、実際にシリーズで活躍する。生命播種機構というのも、バルディオクたちの組織と〈カタラク〉のふたつがシリーズに登場するが、ここでは、どうやらそのどちらでもない第三の機構を想定しているらしい。
 もちろん、1400話ではほんとうに想像を絶するカタストロフィーが局所銀河群を襲う。その中で、ローダンたち主要登場人物は 700年の時を失い、銀河系帰還の道を閉ざされた放浪者となりはてるのである。


序章

 新銀河暦427年災厄は起こった――おそらく、後世の歴史家はこんなふうに、ちょっと気どって語りはじめるのだろう。あたかも時空を超越した存在となったかのように、悠然と事態をながめながら。
 しかし、われわれにとって、この災厄は現実だ。今ここで語られる言葉は、誰のものであれ、生命への意志を熱くたぎらせている。生き残る者たちに遺す切実な願いがこめられている。
 異宇宙タルカンとの接触とか、コスモクラートとの確執とか、すべては不死なる者たちの問題だ。われわれ死すべき者にとっては、かれらが宇宙の運命とかかわることでよびこんだいくつもの「小さな」災い――ヴィシュナ、無限艦隊、エレメントの十戒、あのいまいましいまでの「星々へのあこがれ」、永遠の戦士たちの圧政――こそが、一生を左右する大問題だったのだから。
 この二十年で銀河の全ヒューマノイド種族がおよそ成員の半分を失ったという。そして、タルカンとの紛争は局所銀河群に新しい銀河を誕生させ、われわれの宇宙から幾多の星々を消滅させていった。これら理解の限界をこえた事態のただなかで、はかない生命たちはいったい何に希望をたくして堪えしのべばよいというのか。
 いま、宇宙そのものが揺れ動き、あらゆる被造物が滅亡の淵にある。この宇宙の自然法則システム自体がなにか深刻な障害をかかえ、もだえ苦しんでいる。
 不滅とさえ思える伝説的な不死者たちも、この災厄を生きのびることは難しいだろう。もちろん、わたしと仲間たちに、事態の結末を見届けるだけの時間はもとより残されていない。
 でも、わたしは諦めることができない。生きたいのではない、知りたいのだ!
 抑えのきかないこの気持ちのために、二隻の船は故郷を遠くはなれた危険な宙域に飛んだ。知りたいという思いが、数百名の男女に死をもたらすことになった。
 誰か、教えてほしい。どうして、われわれは、人類はこうまでして知らなければならないのだ。
(427年2月7日 ドクター・ブルーバキJr)

1

 《風の星座》――《津波1022》――は名もない衛星に墜落し、沸騰する金属の池になった。
 しかし、それが何だろう。
 おとめ座の一角から、時空相転移の大波がおしよせる。想像もおよばぬほどの破滅が、無限の深淵をこえ、いくたびも、飽くことなくうちよせる。
 時空の褶曲は全銀河の交通と通信を遮断した。もはや超空間に飛びこむのは自殺行為だ。構造断層は星々を切り裂き、空間のふるえは銀河からすべての文明を、生命を、情け容赦なくふるいおとそうとするかのよう。
 すでに何億という知性体が死を迎え、さらに多くの動物や植物たちの生命が失われている。
 惑星も、恒星さえも。
 《津波1022》のパートナー、通称《水の星座》も長くはないだろう。
 全周スクリーンが超空間の嵐を、毒々しい極彩色の炎をうつす。照明の消えた司令センターで、高次元エネルギー分布のセンサー表示だけが生きいきと輝く。
「きれい、だと思わない?」ひびわれた唇が、乱舞する色たちに、その中心に赤い円板となってまたたくひとつの衛星に語りかける。「あたしたちの銀河は、こんなにもきれいに死んでいくの」
 男がかすれた声で言った。
「お姫さま」苦しそうに咳こむ。「詩の、お時間じゃ、ないんだけどね」
 昨日来、船内気温は摂氏45度、湿度0パーセント。時空断層の放電は、ほんの数日で最新鋭探査艦を内部からぼろぼろにしてしまったのだ。
 パラトロン・バリアも、《津波》の誇るアンティテンポラル干満フィールドをも貫きとおす高次放射線。ハイパートロップ機関の暴走。被爆し傷を負った者たちはつぎつぎに死んでいった。おそらく、生存者はここにいるふたりだけ。放射線に脳をやられた気違いがひとり、片脚の麻痺した怪我人がひとり……どちらも、死にかけている。
「こんなに、きれいなのに」
 焦点の定まらない瞳が、どこか遠くのだれかに微笑みかけた。
 暗く沈む映像の中央で、孤独な衛星が無残な母星のかけらに包まれて、不安気に漂う。真紅の円いかたちが、むらさきに光る塵と岩塊のなかでちらちらとまたたく。そして、弾力をなくした成形シートに身をまかせるふたりの疲れた姿を浮かびあがらせる。
 男は白く汗を吹いたパイロットの制服。女のほうは船の運行にかかわりのない、民間人か学者のようにみえる。
 スクリーンに映る赤い月から、墜落した僚船の最期の炎があがった。
 それが、男の握りしめたこぶしと、女の豊かな髪をはげますように照らしだす。熱と乾燥でくすんだ肌をしているものの、ふたりがそれほどの年でないことがわかる。鳶色の瞳で炎の天空をあおぐ女は、うつろで疲れたきった表情さえなければ、まだ少女といっていいほど。
「かたちのないもののかたち、それとも」涸れた喉が許すかぎり、嬉しそうに笑う。「もののないかたちのもの、なの、かしら」
 関節のはれあがった男の指が、いまいましげに、汗と油に汚れたキーを叩く。
「くそっ、アンジェラ、夢は……その、なんだ、静かに見てほしいね」
 その声も、かすれはて疲れはてて、壊れた空調がはきだしつづける風よりも頼りない。しかし、むくんだ鉛色の腕に導かれて、《津波》は確かに飛んでいた。月が投げる影の中を、乙女座が放つ巨大なエネルギーを逃れて。
「お月さまは、夢じゃないわ」アンジェラのか細い腕が赤い衛星へとのばされる。
 そして、弱った全身の力をふりしぼり、よろよろと体を起こした。
「そうよ、夢じゃない!」
 高次放射の直撃をうけて崩壊した女性ミュータントの心がなにをとらえたのか、ユージンにはわからなかった。だが、その瞬間の彼女の瞳のきらめきに、確かに狂気以外のなにかを、見つけることができたのである。

『聞いているひとがいるかどうか、わたしにはわかりません。わたしはテラの探査船《津波1022》……通称《風の星座》の実験施設の一部でした。UNCのドクター・ブルーバキJrの〈プシ=コンピュータ〉研究の補助施設です。
 わたし自身は偏屈な論理を組みこまれたただのポジトロニクスに過ぎません。でも、実験のために、博士自慢の「ビッグバンさえ恐れるにたりない魔法の箱」に格納されていました。だから、《津波1022》がこの月に墜落し、完全に分解してしまったらしい今も機能していることができたのでしょう。
 遭難の原因は、博士の実験のためにこの危険な宙域に足を踏みいれたことでした。
 ここには宇宙の力線が集中しています。乙女座銀河団のプシオン中枢ユニットが放射する宇宙創造の力が、この銀河系の辺境に比較的明確な像を結ぶのです。
 パラメカニック技術によってこの力の姿をとらえ、全宇宙に展開されているプシオン回路網の分布を「直知」すること。そして、一種のプシ端末を開設し宇宙創造プログラムの情報を読み解くこと……これが〈プシ=コン〉実験の目的でした。
 しかし、荒れ狂う高次元の力は博士たちの予想を越えていました。アンティテンポラル干満フィールドでさえ、この宙域ではたいした防御にならなかったのです。
 わたしの手足であった機器も、〈プシ=コン・センター〉のブラックボックスも失われてしまいました。たぶん、もう実験はありません。この宇宙と異宇宙の謎も、プシオン機構の騒乱から起こった今回の災厄の秘密も、もう解き明かす手伝いはできないのだと思います。
 そうした場合、わたしは博士にかつてプログラムされたとおり、次に優先される指示に従います。
 今のわたしには「見る」ことができませんが、この月の影のなかを僚船《津波1021》……通称《水の星座》が飛んでいるはずです。わたしは、その生存者を救うために、そして、この宇宙規模の災厄の中で死を迎えようとしているすべての生命を救うために、できるかぎりのことをするつもりです。
 たとえ、わたしに接続されている機器がどれひとつ動かないとしても、祈りつづけることはできるでしょう。祈り――とはそういうものだと、博士は言っていました』

 アンジェラは〈プシ=コン〉実験に参加していた周波数透視者。電磁波、ハイパー波をはじめとするあらゆる搬送波を「感じる」ことができる。
「やさしい、お月さ、ま」
 おびただしい高次元の放射線にさらされて焼き切れた心が、渇ききった舌をもつれさせる。艦内の熱気にさらされてひからびたはずの体から、一瞬信じがたいほどの汗がふきだし、微かな湯気をあげた。
「お月さまは、やさしい。とても」
 死にかけていたはずの男は、なぜか急に愉快になった。いざ最期を迎えようというときに、おれたちはひょっとして何かすごいものを見つけたのかもしれない。
「悪かったよ、莫迦にして。どうだい、教えてくれないか」こわばっていた頬の筋肉がゆるんでいくのがわかる。「きみの夢を、見せてくれないか」
 ほら、おれはまだ笑うことができる。すくなくとも、微笑むことはできる。
 成形シートを通じて伝わる振動は、《水の星座》の機能がまたひとつ失われたことを意味した。しかし、かすむ目は冷静に計器を見通し、痛む指がすばやく的確に回路を閉鎖していく。「なあ、お月さんは、なんて言ってるんだい?」
「やさしい。やさしいひとを知ってる、から」

2

「どんな罰もない。きみはただ死ぬのだ、残念だが」
 イザイクの判決を前にしても、ダーゼルクは冷静でいられた。
 それでも、わたしは間違っていない。
 仲間のうちふたりに連れられて、反応炉への長いシャフトを下るあいだも、とりみだすことはなかった。
 石頭のゼクシックはおごそかに裏切者を処刑場に導いた。気のやさしいグエンドリクはダーゼルクの顔を見ないように、行く先だけを見つめていた。
 われわれは新しい生命をもたらすために派遣されたのではなかったか? たしかに「あれ」は規格をはずれた生命かもしれない。でも、抹殺とは……そんな指示を呑むわけにはいかない。
 あの不幸な生き物たちは、ただ静かに生きたいと願っているだけなのだ。
 重合物質の柩の中で、ダーゼルクはプラズマの熱い流れが頭上から降りそそぎ、自分の肉体を一瞬のうちにひとしずくのエネルギーに変えるところを想像した。
 そう、生命はおのずから、あるいは〈組織〉の手をわずらわせて、宇宙の塵から生まれてくる。そして、どれもみな――高度の進化をとげるわずかな者たちは別として――いつか、ふたたび虚空をさまよう素粒子の渦のなかに還るのだ。
「ダーゼルク」
 空間がふるえながら細くしなやかな姿をかたちづくり、死を覚悟した男の目の前に、指ほどの大きさの像を結んだ。
「アリソック!」きみの悲しみにふるえる瞳の、だが、なんと美しいことか。「言いたいことはわかっている」
 彼女のように魅力的な生物をダーゼルクは知らない。残念なことに、ふたりの生物学的な特性は多分にかけはなれたものだったが――なんと。こんなときに、わたしはいったい何を考えているんだ?
「でも、わたしの〈胞子船〉の隠し場所を教えるつもりはない。転極した〈搬生素〉が生成する生命形態はたしかに異質だが、総体的にはポジティヴだ。やさしいとさえいっていい。あんなに素晴らしいものたちを、意識さえ生まれないうちに殺せというのか? 冗談じゃない」
 愛しいアリソック……だが、彼女がここに来たのもわたしを救うためではないのだ。  アリソックにだけは理解してほしい、そう考えたときはじめて、自分がただの不適応者、惨めな裏切者にすぎないのだ、と感じた。けっきょく、つまらないことで意地になっている、愚か者にすぎないのではないのか。
「ダーゼルク、どうして。コスモクラートの指示にそむくなんて」
 どうやら、わたしは自分で思っていたより、はるかに莫迦だったようだ。それに、どうやら、愚言を撤回する時間もないらしい。
 哀しみとあざけりがまじったような微笑みをうかべたまま、アリソックのプロジェクションはプラズマの奔流の中に消えた。それと同時に、ダーゼルクの肉体もまたそこにはなかった。

墜落の寸前に《風の星座》のだれかが使用可能なあらゆる回線を通じて送信したらしい、宛先も差出元も記録されていないメールだった。しかし、ブルーバキJrのものであることは、文面からすぐにわかった。
『昔の人間はよく突飛な発想をしたものだ。月の表側の陰影をながめて、「ねずみ」とか「うさぎ」とか、そんなものが月に住んでいると考えていた。
 ところが、おもしろいことに〈プシ=コン・センター〉のブラックボックス――あのレムール製のガラクタ・チップも同じ幻想をいだいている。あの衛星には「うさぎさん」がいるのだそうだ。
 もし生きのびて退屈している者がいたら、手持ちのデータを解析してみてほしい――残念なことに、わたしにはあまり時間がないようなのでね』
 ユージンは、《水の星座》ラボ・セクターの端末に受取人のいないメールが放りこまれているのに気がついた。熱い金属の池に沈んだ機械は、膨大なデータの検索の途中で、覚えのないテキストが記録されているのを見つけた。そして、あるいはアンジェラも、壊れた心で、博士の最期の言葉を「聞いて」いたのかもしれない。

『どうやら、わたしに接続されていたはずの機器はすべて高温のなかで溶けてしまったようです。したがって、あとは、祈ることだけを考えたいと思います。
 《津波1022》が墜落するまでのわずかな時間で、船の中枢ポジトロニクスからかなりの情報を引きだすことができました。また、それにもとづく分析を肯定する博士のメールも発見しました。
 この月は自然の天体ではありません。
 〈プシ=コン〉の直観機能をサポートするアンジェラが発狂し、乗員と船の精密機器のほとんどが致命的な損傷を被ったとき、《津波1021》と《1022》はカタログEX2341A1……つまり、この衛星の影を退避場所に選びました。乙女座から身を隠すように、恒星と惑星の影に入る軌道をとっていたからです。
 しかし、本星系のデータを解析した結果、各天体の軌道が実は数ヵ月前に大きな修正をうけていることがわかりました。しかも、恒星系自体が若干ながらその軌道を修正し、隣接する連星系の影に入っていた可能性さえあるのです。
 数百万年の昔のことですが、宇宙に生命を播種することを目的とする巨大な船がありました。そのうちの六隻は不死者たちの手で回収され、今も銀河系内で基地として使われています。
 この衛星の直径は、およそ1200キロメートル。〈胞子船〉の偽装として、妥当な大きさといえるでしょう。
 どのような経緯でこの人工の月がここに置かれたのかはわかりません。しかし、この巨大な船の動力がまだ生きており、内部でなにものかが生息しているのはどうやら確かなようです。
 不思議なのは、無限に近い能力を持つはずのこの超技術の産物が、これまで前述のような消極的な対策しかとっていないということです。機関に問題があるのでしょうか。あるいは、内部にいる者が船の使い方を知らないのかもしれません。
 生きのびてください……この人工の星が生き残ることは、その影の中を懸命に飛びつづけているはずの《津波1021》を助けることにもつながるのです。
 それとも、人間たちはもう死んでしまったのでしょうか?
 知覚機器のすべてをなくしたわたしには知る手段がありません。でも、信じて祈りつづけてみようと思います。
 生命はあきらめない。そして、その点では「未曾有の頑固プログラム」を組みこまれたわたしも生命の一種なのだそうです――博士はそう教えてくれました』

3

「オーケイ、アンジェラ。やっと着いた」ユージンは渇ききった喉から、努めて元気な声を出そうとした。「もし、回線が生きてるなら、司令センターの、きみのところまで、聞こえるはずだ」
 事故以来ずっと感覚のない左脚が、今頃になって熱く疼きはじめていた。かすむ眼とは反対に、嗅覚が異常なまでに鋭敏になっているのがわかる。
 イオンのはりつめた空気。暴走する機関を守ろうとして、立ちつくしたまま炭化し崩れ落ちたエンジニアたちのきな臭い匂い。
「話したとおりだ――お姫さまが、聞いていてくれた、ならね。《水の星座》はオートで――動いてくれれば、たぶん、きみのお月さまに、向かって、突っこむ」
 こわばった両手がなんとか壁の手すりをつかむ。腫れあがった右脚だけでは、立つことすらおぼつかない。
 でも、重力があるのは、まだ加圧力中和装置が生きていることを意味するわけだ。そうだよな?
「着地できるか、どうかは、運しだい。九割ぐらい――だめ、だがね」
 焼けつくように痛む喉には、もう咳こむ力さえない。それでも、自分でも聞きとれないほどのかすかな声が、一歩ごと、ひと息ごと、かわいた空間に吐きだされていく。
 ラボ・セクターは連絡の途切れる少し前に、相転移衝撃波の第三波到来を警告した。掩体となっている衛星共々、すでに廃船同然のこの探査艦など、ひとたまりもないだろう、と。
「ただの、雇われパイロットに、どこまでATG――アンティテンポラル干満フィールドが扱えるか、わからない。まあ、やってみるさ」
 船体が震えた。最後のインパルス・エンジンが哀しげに鳴きながら、《水の星座》を月への軌道にのせていった。
「この船のためでなく、きみのお月さまのために、フィールドを展開する。もしも、きみのうさぎさんたちが……」
 月を守ろうとするアンティテンポラル干満フィールドの意味に気づいてくれたなら、まだ出会ってもいない生命たちは、数倍、数十倍の強度のATGフィールドで相対的未来へ退避することに、思いいたるかもしれない。
「でも、これは、希望的観測、もいいところだ。見こみは、まったく、ない」
 ユージンは足をもつれさせながら、ようやく無傷のATGコンソールのひとつに倒れこんだ。くすんだモニターのひとつが、迫る月面と、毒々しい天空の光を映しだしている。
「でも、いいさ」
 一瞬でも一秒でも、とにかく生命のつづくかぎり、きみのうさぎたちを守ってみよう。思えば、永遠にしたところで、一瞬一秒の積み重ねにすぎないのだから。
 アンジェラ……真に理解しあえたとはいえないパートナー。それでも、ふたりは最期まで同じこの月を見ていた。
「アンジェラ、祈っててくれ」

 そこには何もなく、彼女、または、かれ、かれらはそこにいた。
 有機物の活発な活動もなく、無機物の連鎖反応もなかった。電磁場や重力場の振動もなく、高次の場にも何の異常もみとめられなかった。
 しかし、そこには生命があふれていた。
 かれらなりに、走り、漂い、跳び、歌い、生きてきた。
 代謝と自己複製によって存在をつづける、自律的な仕組みを生命という。だから、ふつう、生命はなにか目に見えるかたちをとる。
 それからすれば、これは異端の生命だった。
 たとえば、人間たちは、死んだ身内がいつものように食卓につくのを、ふと感じることがある。永遠にこの世を去ったはずの知人が、ドアを叩くのを聞くことがある。
 たとえば、幽霊といってもいい。
 この船の生命は、そんなふうにして、他の生命に認められることで生きていくのだ。
 それでも――いや、だからこそ、この狂った〈搬生素〉の産物は、希望や、祈りというものを知っていた。
 自分たちを最初に認めてくれたひとつの生命のことを、宇宙秩序の維持者に反抗してまで異質なものを守ろうとしたひとりの男のことを、片時も忘れたことはない。
 そして今、この月を守ろうと懸命に祈りつづけるいくつかの心たちのことを、アンジェラのうさぎたちは確かに感じとり、かれらなりのやりかたで応えようとしていた。

4

『不死者たちがもたらした宇宙的な視野の知識のなかに、プシオンという概念があります。
 博士のような頭の固い物理学者たちが解釈するところでは、プシオン――いわゆる〈魂の量子〉――とは、空間の情報処理・伝達能力の総体をあらわしているのだそうです。
 人間の脳が占める空間は、人間の脳がもつだけの機能をもっています。単にIQのように一面的なものではなく、空間や時間の抽象化、美術や文学への傾向、あこがれや恋といった感情、それに、人間自身も気づいてはいない多種多様な能力が、その空間にはあるというのです。
 集団としての人間を考えれば、意志伝達の手段・活動によって、いっそう多様な次元の情報処理・伝達ポテンシャルが生じます。この力は――量ではなく質の問題ですから――時間内に何ビットの情報を処理できるか、ではなく、ひとつの情報をどれだけの次元=視点から検証できるか、で計測されることになります。
 そして、この計測の手法を、この宇宙のあらゆる被造物のすべての関係を統括する手段として、拡張していくのです。
 人間の社会、機械の構造、動植物相、鉱物の化学変化までもふくめた相互作用、時間と空間と量子たちのマトリックス――すべてを空間の情報処理・伝達能力として計量化したとき、わたしたちは全宇宙の法則を包みこむ、壮大なネットワークを見ることができるはずです。
 どうやら、これがプシオンというものの姿らしいのです。
 プシオン・システムは無限の可能性をもつ媒体です。日常のふるまいを低い周波数による情報の伝播だとすれば、ミュータントたちが利用する周波数のようなモードもありえます。もっと高いところには、不死者たちが伝える「宇宙の物理法則を規定するプシオンのシステム」が活動していると考えることもできます。
 活発な生命活動をおこなう空間は、高いプシオンの数値を示し、抑圧された精神がひしめく空間は不安定な低い数値を示すはずです――昔から、人々が直観的にポジティヴ・ネガティヴと表現していた価値の基準がここにあるのです。
 生きるものたちの意志とプシオンは、直接に連動してはいません。しかし、けっして無縁なものではないのです。
 ドクター・ブルーバキJrはパラ・メカ・ベースでポジトロニクスとミュータント、超空間センサーを結合し、直観と連想と「思いこみ」を原理とする全宇宙展望システムを造ろうとしていました。〈プシ=コンピュータ〉はこの宇宙を包みこむプシオンの回路網を認識し、そこに蓄積された情報を読みとる端末装置となるはずだったのです。
 同時に、このシステムはプシ・ネットワークと直結した強力な「祈り」の発生装置としての可能性も秘めていました。
 わたし自身には〈プシ=コン・センター〉ほどの統合能力はありません。でも、今もこうして、たしかに祈りつづけることができます。
 博士は言っていました――生命が希望と祈りを忘れないところには、常に奇蹟がおこる可能性があるのです』

 乙女座の方角から空間のうねりが押しよせるたびに、アンジェラの壊れかけた精神に鋭い痛みが走った。
 危機の予感とともに、よせる波のように激痛があふれだす。潮が満ちるように、しだいに高く強くなっていく苦痛を感じる。
 しかし、死にかけた心はそれでも天空を見上げていた。そこには、失ってはならないなにか大切なものがあるのだ。
 だから、けっして瞳を閉じてはいけない。
 司令室の全周をおおう広大なスクリーンのなかに、そびえたつ巨大な炎の壁が近づくのが見えた。乙女座から銀河へと投げられた、信じがたいほどの輝きをはなつ波のかたち。
 破局の第三波が近づいてくるのだ。

 やがて、生命あるものたちの祈りの中で、真紅の炎につつまれたアンジェラの月はゆっくりと空間に溶けはじめた。
 そうして、きらきらと輝く無数の雫たちが、遠いどこかにむけて、そっと静かに、やさしく降りそそいでいった。

5

「それで、どうなったんだ、かれらは」
「わかりません。われわれが見つけたのは、七百年前に破壊された恒星系の残骸と、それに、このうわごとを言ういかれたポジトロニクスだけです」
「……」
「ただ――衛星のかけらと思われる岩塊が異常に少ないのは確かです。それに、この周辺の宙域がしめす異常な重力分布からしても……」
「生きのびたと、考えていいのだろうか」
「行ってしまった、としたほうがいいかもしれません。どこか、その、遠くへね。時空相転移の中で相対値もエネルギーもでたらめな時間転移を敢行したのだとすれば――たぶん、この宇宙で出会うことはないでしょう」
 いつも輝きを忘れたことのない灰色の瞳が、はるか遠くのなにかを求めて宙をさまよった。しかし、それもほんの一瞬だけのこと。
「よかろう諸君、これでまた、われわれはふりだしに戻ったわけだ。さて、意見を聞かせてくれ、この銀河系の壁を破る提案を」
 三千年を生きた男は額を高く上げて、青く静まる壮大な銀河の景観をふりあおいだ。
「最後まで祈りを忘れなかった《水の星座》とアンジェラの月と……この機械のためにも、われわれは事の顛末を知らねばならない。そして、けっして希望をすてるわけにはいかないのだから」

- ENDE


月の雫 Die Tränen des Mondes
(c) Heldeins Jungwald / y.wakabayashi
produced by rlmdi.